第2代会長あいさつ

夢に満ちたフェース・トゥ・フェースの学会を

学会は、どのくらいのサイズがふさわしいのだろうか。一般的な価値基準からすれば、会員数の多い方が高い評価を受けやすい。海外の学会への参加費の助成を申請する際に、何人規模の学会かなどを書くようになっているのも、おそらく数が評価されるのであろう。ところが、充実度はそれとは別問題である。私は、これまで4回の国際シンポジウムを企画したことがある。かりに予算が十分あっても、参加者を15名前後からせいぜい30名程度にしぼった。その人数で3~4日から10日間近くにわたって、「かんづめシンポ」をおこなうのである。はじめてお会いする方でも、シンポの半ばをすぎると、なごやかな雰囲気になってくる。シンポの開催前に、2泊3日の民宿合宿を隠岐島で企画したこともある。すると、シンポが始まるときには、もう旧知の間柄のようになっていた。

学会でもシンポでも、重要なことはお互いの信頼のもとに刺激を分かちあうことである。いっしか人数がふくらんだアフリカ学会において、学術発表の会場を「二会場」にするか、緊迫した議論になったことがある。異なる分野の会員が多い地域学会だけに、個別の専門学会では聴くことのできない研究発表が大きな魅力であった。しかし、発表希望者数が多くなり、もはや学会の本分であるはずの「刺激を分かちあうこと」による止揚ができなくなりつつあった。私は、当学会のニュースレターで「二会場」制をつよく提案した。ところが、いまや三会場でも満杯である。

私が最初にアフリカ学会で発表したのは、1969年名古屋で開催された第6回大会である。発表時間は、40分であった。そのときの学会記事(『アフリカ研究』9:76)をみると、まる2日間にわたり16の個別発表がおこなわれた。懇親会には「40名近くが参加しなごやかな一夕であった」と記されている。

当時の若々しいアフリカ学会が、私にとっては原点である。それから、およそ30年がすぎた。研究内容は当時とは比較にならないほど深まり、日本の研究者はそれぞれの分野で世界の最先端にたつようになった。数多くの本学会員が、国際的な舞台ですがすがしく活躍している。

英文の学会誌と和文のニュースレターを継続して出版していくことは、なみたいていのことではない。しかし学会の情報発信は、けっしてローカルにとどまってはならない。フェース・トゥ・フェースという本学会の柔軟な特徴をいかして、会員のみなさんがますます活躍できるような装置を育んでいければ、と願うばかりである。こうしたぜいたくな発想ができるのも、初代会長の河合雅雄さんと高島基金・高島賞の生みの親である故高島浩一さんのおかげである。ここに、あらためて厚く御礼を申し上げるしだいである。

福井勝義